2023年12月28日

心の中に犬がいる

ふっと風が吹いた

電車が駅に入っていった。
徐々にゆるゆると停止するあの感覚とは別に、急に車体が止まる。
思わず転びそうになる。

ドアは開かない。
いやな予感がする。
そしてそれは当然のように車内放送で告げられる。
どこかの誰かが無事かどうかはわからなかった。
電気が消える。

「うしろの車両のドアが開いていますので、そちらから出てください」
こんどは放送ではなく、駅員が大きな声を出す。
ぼくはすこしやりきれない気分で、前にいた老人を眺めながら列をなす。
その老人は手押しのカートを、さも大事そうに押していた。
けっこう重いんだろうな、とぼくは思った。
愛犬のエディを載せたドッグカートの重さの感覚を思い出す。

老人がドアとホームの間にさしかかったとき、老人はそのカートを持ち上げられなかった。
ぼくはひょいとそのカートをつかみ、ホームへ移した。
「ありがとうございます」と、その老人が言った。
「どういたしまして」と、ぼくが言った。

ふっと風が吹いた気がして、この世の不幸というものは、こういうちょっとした親切や、明るい気持ち、笑顔、もっといえば希望、みたいなものを積み重ねて帳消しにしていくしかないんじゃないか、となんとなく思った。

 

悲しいけれど、わかってしまうから

次の日の新聞に、「電車にはねられ重傷」という小さな記事が出ていた。
間違いなく、あの電車だ。
58歳の女性がはねられ、骨を折る重傷を負った、と書いてある。
女性はどうやら自分から線路に下りたようだ。

もちろんこの女性になにがあったかはわからない。
どうにもやりきれない感情が、極端な行動につながることもあるだろう。
それでも彼女は生き残った。

愛犬のエディが、ぼくの膝に乗りたそうにしている。
もちろんよいぞ、とぼくは声をかけて、エディはゆっくりとした動きで老体に鞭打ち、膝に上る。
自分のベッドのほうが絶対にやわらかくて居心地がいいはずだが、ここが好きらしい。
重たいけれど、ぼくだってまんざらでもない。
だって、こんなのはもう、長く続かないのだ。
なんとなく、自分の犬が弱っている、というのはわかるから。
悲しいけれど、わかってしまうから。

 

あまりにも純粋な子ども

その老人は、陽の当たるウッドデッキの上でエディを撫で、満足そうに笑った。
「なんて可愛いんだろう、犬っていうのは」
「もうだいぶ、おじいちゃんですけどね」
「いやいや、犬に年齢はないよ」
老人の言葉をなんとなく流していると、彼は続けて言う。
「犬に年齢はないんだよ。どんなに歳をとっても、子どものままなんだから。ある意味でやつらは最初から自立しているし、それでいてあまりにも純粋な子どもなんだ」

ぼくはこの老人がそんなふうに考えていることに興味を持った。
あまりにも純粋な、子ども。

「もうわたしも齡だからね、次の犬は飼えないなあ…たぶんわたしのほうが先に死ぬから。さみしいけれど、それは我慢することにするよ」
老人はそう言って、もういちどエディのあごを撫でた。
「それでもたっぷり、犬との暮らしを楽しんできた気がするからね。その思い出だけで、もう、じゅうぶん」

孤独な老人こそが犬を飼い、癒されるべきだ、なんていう風潮もあるけれど、ぼくもそこには与しない。
誰もが癒されるべきだが、それが恣意的なものであってはいけないし、犬を道具に使うべきではないのだ。

 

だからもう、犬は飼わないんだ

でも、さみしいですよね、やっぱり、とぼくは目を合わせずに、水を向ける。
「さみしい、というのは自分の感情だから、なんとかなる。自分がよければそれでいい、なんて考えかたになっちゃいけないよ。だからもう、犬は飼わないんだ」
老人はすべてを言い切ったかのように、大きく息を吐いて、ウッドデッキに座り直す。
「心の中に犬がいるからね、いちばん好きなあの子が」
エディは光が反射する窓に目を細めながら、まるで人間のような表情で、話を聞いているように見えた。

 

確かに、そこにいた

電車が最寄りの駅に到着し、ぼくはイヤホンを外す。
駅の目の前には大きな公園があって、エディとよく散歩に来ていた。
彼が若いころはとても体力があって、リードを引っ張られながらよく走ったなあ、なんて思い出す。
記憶の引き出しには、こんな何気ないできごとばかりが仕舞われている。
そのくせエディの表情だけは鮮明によみがえり、息づかいや、筋肉質な後ろ脚、ピンク色の舌すらはっきり思い出すことができる。

そうだ、確かにエディはそこにいたのだ。
いまはもう、そこにはいない。

けれども、彼がいないという事実は、ぼくを悲しくさせるだけではない。
いないということは、「いた」ということだ。
「いまはもういない」ことが、もっと彼の存在を強くすることだってあるのだろう。

…ねえ、エディ、そろそろぼくも別の子と暮らしてもいいかな。
つぎは保護犬の子って、決めているんだ。
もちろん、心の中の犬はきみだけだ。
きみだけが、ぼくの心の中にいる。

改札口を出ようとすると、前にいた老人の大きな荷物が自動改札に引っかかった。
ぼくはなにかを思い出しそうになったが、黙ってその荷物を引っぱり上げた。
老人はぼくに向かって会釈をした。

そのとき、風は吹いていただろうか。

文と写真:秋月信彦
某ペット雑誌の編集長。犬たちのことを考えれば考えるほど、わりと正しく生きられそう…なんて思う、
ペットメディアにかかわってだいぶ経つ犬メロおじさんです。 ようするに犬にメロメロで、
どんな子もかわいいよねーという話をたくさんしたいだけなのかもしれない。

 

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