<動物愛護週間インタビュー>野犬の仔犬と暮らして(前編) 〜 詩人・伊藤比呂美さんとチトー

犬にとっての幸せについて

犬にとっての幸せとは、いったい何だろう。

これは犬を愛し、共に暮らす人々の多くが抱き続ける、切実な問いではないだろうか。

シンプルでいて奥深い問いかけは、真摯に向き合うほど、容易に正解を導きだせない命題として浮かび上がってくる。

詩人、伊藤比呂美さんの著書『野犬の仔犬チトー』(光文社)を読み、あらためてこの問いが頭の中を巡り始めた。

野犬の仔犬チトー

2024年5月に出版された同書は、伊藤さんと、保健所から引き取った野犬の仔犬チトー、そして先住の犬猫たちとの三年間を綴った記録。

文学者の視点で、率直に、ときにユーモアを交えて綴られる動物たちとの日々は、元野犬の保護犬と暮らす人々に、深い共感と、大変さを乗り越える活力をきっと与えてくれるはずだ。

ままならなくて、でも愛おしい、野犬の仔犬との生活。

その中で遭遇する、驚きや嬉しさ。

さらに、共に暮らす犬と猫たちによってもたらされる根源的な喜びについて、伊藤さんにお話をうかがった。

熊本の保健所から

伊藤さんが熊本県某市の保健所から野犬の仔犬を引き取ったのは、2021年の春。

推定2ヶ月半ほどの女の子で、名前はチトー。

大好きだった『シートン動物記』の「かしこいコヨーテの話」の主人公、雌コヨーテのチトーにちなんで名付けた。

この約20年、自宅のあるカリフォルニアと熊本を行き来しながら、パピヨンのルイとニコ、ジャーマン・シェパードの保護犬タケとクレイマー、猫のメイ、テイラーと生活してきた伊藤さん。

チトーを迎えた当時は、熊本でクレイマー、メイ、テイラーと一緒に暮らしていた。

保護犬を育てた経験もあり、トラウマのある犬との生活も慣れたもの。

そのはずが、初めて迎えた野犬の仔犬との生活は、想像をはるかに越えるほど、驚きと戸惑いに満ちていた。

怯える命との出会い

「これまで私、犬の育児で、ここまで苦労したことはなかったですよ」

朗々と、冗談めかしながら、話し始める伊藤さん。

チトーの姿を初めて目にしたのは、保健所のホームページ。

「保護犬猫」として掲載されていた写真が忘れられなくなり、「これも縁だ」と思って保健所に電話をかけたのが、ことの始まりだった。

数日後、保健所からの電話で、怯えた目をしたその子は野犬の仔犬なのだと知り、一度会いに行くことに。

「ホームページに『人慣れしていません』と書いてありましたが、野犬だとは思っていなかったんです。会いにいく時点で心が決まっていたわけではないのですが、キャリーも持参していたので、引き取ってもいいという気が、私にもあったんでしょうね」

保健所の職員は言葉を濁していたが、懐きにくい子は殺処分になる可能性が高い。

事情を察した伊藤さんは、その場で「この子を引き取ります」と伝え、連れて帰ることを決めた。

コヨーテへの憧れ

実は伊藤さん、野犬と聞いて、いささか期待するものがあった。

「アメリカに住んでいた頃、20年来ずっと飼いたかった犬種があって。コイドッグというコヨーテと犬のミックスなんです。すごくかっこいいんですよ。ただ、一般的な住宅地では飼えない犬種なので諦めていたんです。でも野犬だったら、コイドッグにも近いんじゃないかなって」

シェパードの保護団体から引き取ったクレーマーとも、すんなり良好な関係を築くことができたのだから、野犬も大丈夫だろう。

そう考えて引き取ったものの……

「予想とはかなり違いましたね」

伊藤さんは大きく目を見開く。

野犬の仔犬との暮らし

狭くて怖い場所から引き出されて、伊藤家の一員となったチトー。

家に来て2日目の夜、事件は起こった。

「ケージを出て、私のベッドの下に籠城してしまったんです。後々のことを考えれば、ケージを閉めて、その中でゆっくり慣らしていけばよかったと、悔やまれるところです」

怖がりで警戒心が強いのは、野犬として育った数ヶ月の記憶と、人間に捕まって保健所に押し込められた体験のためだろうか。

チトーのこわばった心が温まり、家に居場所を見つけていけたのには、先住の犬猫たちの存在によるところも大きい。

籠城を始めた翌々日には、猫のメイと遊びたくて、ベッドの下から這い出してきたチトー。

日を追うごとに、リビングに出てきたり、先輩の犬猫にならって伊藤さんの手からジャーキーを食べたりと進歩を見せ、家に来て1週間を過ぎる頃には、クレイマーに寄り添って眠るようになった。

なんとも順調な滑り出し。

「私もそう思っていました。このまま慣れて、苦手なリードもつけられそう。この本のクライマックスでは一緒に散歩できるようになって、『めでたし、めでたし』で終われるかなと。実際は、とてもそうはいかなかったですね」

家庭の中の群れ

これまで接してきた犬たちと明らかに違うのは、分かりやすくは人間に懐かないこと。

「今まで飼ってきた犬って、デモクラシーなんて全然なかった。犬ぞりを引く犬たちと、操縦するマッシャーのように、中心に私がいて、犬たちが従う上下関係ができていたんです。彼らは、常に私だけを見て行動する。でもチトーは、私ではなく、クレイマーしか見ていないんですよ。クレイマーを群れのアルファ犬として認識しているんですね」

とはいえ、クレイマー自身はそもそもボス向きではなく、忠犬タイプ。

それでもチトーに対しては、家の中のルールを教えるなど、責任感が芽生えているそう。

「クレイマーとチトー、2匹だけの群れができていますね。同時に、クレイマーの中心はお母さんである私。一方、チトーのバディは猫のメイで、いつも一緒に遊んでいます。一つの群れでありながら、それぞれの関係ができているんですよね。しかも人間、犬、猫の異種混合ですから、興味深いですよ」

リード問題

それでもチトーのことで、ずっと頭を悩ませている問題がある。

彼女はリードを怖がって暴れるので、迎えて数年経つ今でも、つけることができないのだ。

リードなしでは、散歩はもちろん、緊急時の避難もままならない。

自然災害や、もし自分が先にいなくなったときのことを考えると、やはり解決しておかなくてはと、伊藤さんは繰り返す。

「野犬の仔を飼ったことがないと、分からない大変さかもしれない。ご褒美をあげながら少しずつといった、訓練の基本が通じないんです。私がリードのことを考えただけで、何かを感じ取って逃げてしまうんですから」

これはピースワンコの元野犬たちにも、通ずるところがある。

セオリーも大事だが、それよりも必要なのは、相手に寄り添うこと。

時間をかけて、少しずつ進めるしかない。

そうしてリードや散歩に慣れた子たちが、晴れて譲渡センターで新しい家族を探せるようになる。

そんな話をしていると、

「じゃあ次に飼う犬は、ピースワンコの保護犬にします!」

本気ですよと、目を輝かせて伊藤さんは宣言する。

この子にとっての幸せ

リードと散歩の問題。

そこには、犬の幸せを巡るジレンマもある。

「土の匂いや、脚に触れる草、吹く風の感触を味わわせてあげたい。チトーはきっと散歩が好きになるはず。でも、今できないことを無理にさせるのは、人間の考えを押し付けているような気もして。いちばん大切なのは、この生き物が毎日、恐怖を感じないで幸せに生きられること。家の中で暮らして、大好きなクレイマーとお母さんがいて、美味しいものが食べられて、安心して眠って、猫と遊んで、ときにはお客さんと触れ合って。それでチトーが幸せなら、このままでもいいんじゃないかとも思うんですよね。これも人間のエゴなのかな。分からないですね」

それでも、確かに正しいと言えることがある。

「チトーは人間に捕まって、狭くて怖い場所で、怯えて過ごしていた訳でしょう。それよりは今の方が確実に幸せだろうなって。これは100パーセント、正しいと言えますね」

怯えていた小さな命を救う。

すべての命は救えなくとも、まず目の前の1匹を幸せにする。

それは確かに意味のある、正しいことなのだ。

――後編に続く

伊藤比呂美著『野犬の仔犬チトー』
光文社刊
定価1,760円(税込)

取材・執筆:林りん
ライター、編集者、イラストレーター。シニアの愛犬が相棒。インバウンド向け情報メディアの編集部に勤務後、フリーに。雑誌やライフスタイル系WEBマガジンでの編集・執筆、企業オウンドメディアのデレクション、コピーライティング等を行う。近年はイラストレーターとして、出版物の挿絵やノベルティグッズのイラスト等も手がける。

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