<動物愛護週間インタビュー>野犬の仔犬と暮らして(後編) 〜 詩人・伊藤比呂美さんとチトー

助けを求める大切さ

2023年11月、伊藤さんはアメリカから、老パピヨンのニコを日本に連れ帰った。

熊本の自宅では現在、パピヨンのニコ、シェパードのクレイマー、猫のメイとテイラー、そして野犬の仔犬チトーが、共に暮らしている。

娘さんご夫婦と同居していたアメリカとは違い、熊本ではひとり。

執筆や大学の講義で多忙な中、3匹の犬と2匹の猫の世話をいわゆるワンオペで、こなさなくてはならない。

仕事柄、出張も多い伊藤さん、留守の際には心強い味方を頼ることにしているそう。

「クレイマーが通っている愛犬教室のカマダ先生は、本当に大きな存在です。出張の際にクレイマーを預かってもらったり、自宅に通って動物たちのお世話や散歩をしてもらったり、いつも頼らせてもらっています。仕事との両立も、チトーと向き合うことも、先生なしではやっていけなかったかもしれません」

マンションの隣人や教え子の学生たちも、シッターを引き受けてくれる、ありがたい存在だ。

必要ならば、人にうまく頼る。

その大切さを感じている、と伊藤さん。

「アメリカは互助の意識が浸透していて、犬の世話でも、子どもの世話でも、お互いの家に預けあったりして助け合うのが日常だったんです。日本で育児していた頃には、そんなこと考えられませんでした。一方で、日本の人がすごいと感じるのは、労働に対しての対価を受け取るにしても、もらった分だけでなく、3倍くらいのものを返そうとしてくれること。そこには随分助けられてきましたね。それがなかったら、ワンオペでは行き詰まっていたかもしれません」

学生や愛犬教室の先生にはお礼を払うけど、ご近所の方にはビールをご馳走するのがお礼代わり、と伊藤さんは笑う。

書くことで、向き合える

「私ね、忙しいといっぱい書けるんですよ」

約10年前には、日米を行き来しながら、遠距離介護を続けていた伊藤さん。

同時期に複数の文芸誌で連載を持ち、介護の日々と、そこから浮かび上がる生と死について思索を重ねた、命の記録を綴っていた。

「日本では父の、アメリカでは老犬タケの面倒を見る生活でした。忙しいと一つのことを多面的に見られるんです。忙しさというか、人生の苦労に負けちゃいかんと、頑張って書けるんですよね。子育てのときも、『なにくそ』って、やたら書いていました」

伊藤さんはチトーの育児についても、奮闘の様子をリアルタイムでSNSに綴ってきた。

その記録が「小説宝石」(光文社)の連載となり、著書『野犬の仔犬チトー』として出版されたのだ。

「書いていなかったら、やっていけなかったと思いますね。書いているからある程度、客観視ができる。SNSに書くのも、そういう効果があるんですよね。誰かが見てくれていて、励ましてくれたりね」

みんな普通じゃない

想定通りにはいかない、野犬の子育て。

チトーの育児は、やはり規格外だったのだろうか。

「でも子育てって、結局みんな規格外でしたから。発達障害もそうですし、どの子も、それぞれの特性を持っている。『じゃあ普通ってなんなんだ』ってことになるでしょう? 動物も同じですよね。以前、乗馬クラブに通っていたんですが、どの馬も何かしらあるんですよ。なぜか絶対に右脚が出ないとか、左曲がりができないとか、白い車が来ると立ち上がるとかね」

チトーは、「普通」とは違うかもしれない。

しかし、そもそも普通ではない何かを、人間も犬もみんな持っているのではないか。

「犬って、みんな変わってますよ。すんなり『1足す1 は2』となるような生き物ではないですよね」

野犬と暮らす魅力

野犬と暮らすことは、一筋縄ではないかもしれない。

それでも、野犬との生活だからこそ、得られるものがある。

「大変ではありますが、チトーを迎えたことに後悔はしていません。もちろん、苦労はありますよ。いわゆる『飼い犬』になれる子なら、もっと楽に付き合えますよね。それでも、野犬と暮らして体験する苦労は、私たちが野生というものに向き合う、すごく貴重な機会を与えてくれるんです。家の中に野生が一つ、確かにそこにあるって、ものすごいことですよ。体力や余裕があって、多少なりとも自然に興味がある人なら、野犬と暮らすのは面白いんじゃないでしょうか」

野生がすぐ傍にいて、ふと触れてくれる。

それだけで、たまらなく嬉しいのだ。

「机の前で仕事をしていると、チトーが頻繁に足元に来るんですよ。実は、我が家の犬猫の中で、いちばん仕事場に来るのはチトーなんです。それで、私の手に顔を寄せたり、頭を膝に乗せてきたりして、『何かくれ』って伝えてくる。そのたびに感じる嬉しさって、あり得ないぐらい大きなものなんです」



本能を紐解けば

自ら寄ってきて、撫でてと甘えるのに、人から近づいていくと逃げる。

クレイマーがいれば無邪気に遊んでいられるのに、姿が見えなくなった途端、心を閉ざす。

「本当に、何を考えているのか分からない。私が帰宅すると大喜びでスキンシップを求めるのにね。私のことも嫌いじゃないんですよ。実は大好きなの。でも、もっと運命的に惹かれているボスがいて、それがクレイマー。これはね、何だかすごいですよ。犬が狼だった頃からの生態を紐解けば、ごく当然なことなんですから」

群れを形成する野生の本能を、家の中で目の当たりにする。

これは野生に近い「野犬」と暮らしているからこそ、起こりうることなのかもしれない。

野犬は本当に大変ですと言いながら、伊藤さんはどこか面白がっているようにも見える。

「チトーとメイが遊んでいるのを見るのも、すごく楽しいんです。自分と関係のないところで、生き物と生き物が関わっているのを眺めるのは、どうしてこんなに楽しいんでしょうね。これにも、すごく根源的な何かが関わっているのかもしれないですね」

人生に、犬が必要

執筆に出張、多頭の世話と、目まぐるしい毎日。

それでも犬が必要なのだと、伊藤さんは語る。

「犬がいなかったら、人生ってなんなんだろうと思いますね。私にとって犬は、散歩の相棒でもあるんです。犬と歩き始めたのは20年前。アメリカに住み始めて1、2年の頃でした。毎朝、シェパードのタケの散歩をするようになって、外を歩く習慣ができたんです。カリフォルニアの自然、その一つ一つの植物や、空と海の色を毎日見て過ごしました。その経験が、その後の自分をどれだけ変えたか。熊本でも、6、7年前に帰ってきてから、犬と一緒に歩くようになりました。山や川を毎日歩くことで、熊本という場所への向き合い方が、全く違ってきましたね。これは犬と私との関係を考えるうえで、すごく大切なことなんです」

犬との散歩は、創作にも大きな影響を与えた。

伊藤さんはカリフォルニア在住時から、植物や自然についての執筆も始め、今は日本で、熊本の自然について書いている。

「チトーとも一緒に散歩するつもりだったのですが、あの子は座敷わらしのように、家にいてくれるだけでいいのかなと思い始めています。リードはやっぱり、つけたいですけどね」

野犬の仔が教えてくれること

人間も犬も、それぞれに凸凹を持っている。

得意なこと、苦手なこと、望むこともそれぞれだ。

それならば、良質な関係を作っていく土台とは、相手の特性をまず、受け入れることなのかもしれない。

「犬がこうしてくれたらいいのだけど、してくれない。そういった状況と付き合うというのは、人と人との付き合い、あるいは人と生き物との付き合いの根本である気がします。お互いへの期待が噛み合わないこともあるという、人生経験ですね。野犬の仔犬を飼って90歳になるのと、飼わないで90歳になるのとでは、同じ年齢でも重みが違うのではないでしょうか」

保健所の小さな檻の中でうずくまっていた、小さな命。

チトーという名をもらった彼女は今、家族に愛され、幸せに生きている。

――前編をよむ

伊藤比呂美著『野犬の仔犬チトー』
光文社刊
定価1,760円(税込)

取材・執筆:林りん
ライター、編集者、イラストレーター。シニアの愛犬が相棒。インバウンド向け情報メディアの編集部に勤務後、フリーに。雑誌やライフスタイル系WEBマガジンでの編集・執筆、企業オウンドメディアのデレクション、コピーライティング等を行う。近年はイラストレーターとして、出版物の挿絵やノベルティグッズのイラスト等も手がける。

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