
犬を救うことは、人を救うこと――。そんな想いで始まった全国初の取り組み、刑務所での保護犬育成プログラムが、まもなく始動から1年を迎えます。およそ1年にわたって尾道刑務支所で訓練を受けた黒い保護犬「パクス」の譲渡が決まり、「受刑者が、保護犬が新しい家族のもとで生きられるように訓練を行う」というプログラムの目標を達成することができました。
しかし、保護犬育成プログラムがもたらした前向きな変化は、これだけにとどまりません。ワンコと人との絆が持つ可能性を改めて実感した、そんな実りある1年間を振り返ります。
人を信じられない元野犬・パクスの軌跡
このパイロットプログラムでは、ワンコのお世話をいきなり受刑者に任せるのではなく、少しずつワンコと接する時間を増やしていきました。まずは月に1度、ピースワンコのトレーナーがワンコを連れて刑務所を訪問し、ワンコとの触れ合い方、仕草から分かるワンコの感情などの講義を行いました。

参加犬として選ばれたのは、いずれもオスの保護犬である、パクスとロバートです。茶色い毛並みのロバートが人懐こい一方、黒毛で少したれた耳が特徴のパクスはまだまだ人が怖く、知らない人の前では怯えてしまう、まさに野犬のワンコです。2024年12月、初めて尾道刑務支所を訪れた際には、知らない人が大勢いる知らない環境に怯えてしまったパクスは、ほとんどクレートの中に閉じこもったまま初日を終えることになってしまいました。
それでも毎月刑務所を訪れるうちに、パクスは緊張しながらも、徐々に受刑者にリードを引かれてお散歩ができるように。プログラム開始後半年たった頃には、受刑者と同じ部屋でのお泊まりを果たしました。パクスの慣れはもちろん、犬を刑務所で一晩泊まらせるという前例のない試みを実現させるための関係者の努力が、ようやく実を結んだ結果でした。
パクスの初めてのお泊まりについてはこちらの記事もご覧ください。
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一度お泊まりが成功してからは、パクスと受刑者の距離はどんどん詰まっていきました。お泊まり期間を少しずつ伸ばし、最終的には滞在期間は2~3週間という長期に。長い時間を一緒に過ごすことで、パクスの人馴れも格段に進みます。
「お手」ができるようになった、おなかを上に向けてリラックスして寝てくれるようになった……。二人きりのときには、いろんな姿を見せてくれるようになったと、パクスを担当する受刑者は話してくれました。
ただ、この取り組みの目的は、保護犬を家庭に譲渡できるようにトレーニングすること。パクスが人と信頼関係を築けるようになったということは、パクスのプログラムからの卒業が近いことを意味します。
そして25年10月、その日が訪れました。
ワンコとの絆が与えてくれた生きる目標
新しい環境に馴れ、成長を遂げたパクスの姿は、お世話を続けていた受刑者の男性にも影響を与えていました。
刑務所内の彼の部屋には、あるワンコの写真が飾ってあります。彼が小学生の時に飼い始め、16年間一緒に暮らしたというこの子。パクスと似て人に対する不信感を持つ扱いの難しい犬でしたが、当時家にも学校にもどこにも居場所がないと感じていた男性にとって、一番の「仲間」でした。
パクスのお世話をすることになり、犬と触れ合う仕事を任された喜びと責任から「ただただ夢中だった」と言います。どうすればもっと安心してもらえるのか、懐いてくれるのか、ピースワンコの講義で渡された本を片手に、パクスと向き合ってきました。

当初はごはんやおやつを食べることも拒否していたというパクスも、時間をかけて、少しずつ心を許していきました。今では「散歩に行くよ」と声をかければ立ち上がってやって来て、ハーネスをつけたら自分でクレートに入っていきます。自分から男性に身を寄せてくることもあります。
「犬を飼っている人にとっては当然のことかもしれませんが、そういう当たり前のことができるようになっていったのがうれしい」と話す男性。「お手」に初めて成功したときは感動のあまり、「よくやった!」とパクスに勢いよく接してしまい、そのあとしばらく怖がられたのだとか。
刑務所の生活では、他者とのコミュニケーションの機会は多くありません。受刑者の男性は、パクスと触れ合うことによる自身の変化を「自分がちょっと人間に戻れた気がした」と表現していました。パクスと同じように自分も成長したいという気持ちが芽生え、目標を持てるようになったと言います。これからの人生をどう生きていきたいのか目標を見据え、そのために出所後やるべきことも具体的に考え始めています。

また、たびたび刑務所を訪れたピースワンコスタッフの目からは、受刑者以外の変化も感じました。プログラム開始当初、受刑者と刑務官の立場の違いという壁はとても大きく、両者が対等な立場で会話するような雰囲気は感じられませんでした。しかしこの1年、どうやってパクスと向き合うのか、受刑者と刑務官が一緒になって試行錯誤するなかで、パクスのお世話について自然と会話する姿が見られるようになっていきました。
人間不信に陥ったワンコの心を開くにはどうしたらいいのか、正解は誰にも分かりません。指示されたことをやるだけの作業とは違い、自分自身で、あるかもわからない答えを導き出す必要があります。彼らの関係の変化はきっと、それぞれがパクスに真剣に向き合った結果ではないでしょうか。
パクスとの最後の日、刑務所では関係者たちが集まって「お別れの会」が開かれました。「俺のことは忘れていいから、新しい家族を好きになって、幸せになれよ」。前日のインタビューでは「寂しくなる」とこぼしていた男性ですが、この日はそんな気持ちを封印し、祝福の言葉とともにパクスを送り出しました。
保護犬×刑務所が描く未来
この保護犬育成プログラムはニュース番組などでも紹介され、大きな反響を呼びました。尾道刑務支所の一角は、正式にワンコと暮らすための部屋という位置づけとなりました。今後もこのプログラムを続けていくという決意の表れです。

プログラムはこれで最終形ではありません。パクスが刑務所で暮らしたのは最長でも月に2~3週間程度でしたが、最終的には、刑務所側が一貫して犬の飼育・訓練を担当することを目指します。人馴れトレーニングを受け譲渡につながるワンコを増やすという目的のためには、ピースワンコのサポートのもと、刑務所が主体的にお世話に取り組める体制を実現していくことが肝要です。
受刑者が訓練した保護犬を、出所後に引き取れるようにしたいという構想もあります。ワンコを飼える環境を整えるハードルはありますが、保護犬の引き取りで殺処分減に直接貢献できるうえ、守りたいものができることで再犯防止や生きる意欲の醸成につながるといった効果も期待されています。
パクスの卒業にともない、次回から新たなワンコが2頭、尾道でのプログラムに加わります。当初のパクスに負けず劣らず「かなり手ごわい」というこの2頭。果たして信頼関係を築くことができるのか――新たなチャレンジはすでに始まっています。















